せめて三個は投稿したい

文章の練習にブログ記事を書きます

毎朝嫌いな納豆を食べさせられていたけれど、結局実家を出ても毎朝納豆食べている。きょうだい達を裏切りながら。

平日は毎朝納豆を食べて育つ家庭で育ちました。これは茨城とは縁もゆかりもない父親の実家の風習で、祖父母の家に行っても毎朝納豆が出されましたし、いとこの家庭も同じでした。

 

母の手料理は基本どれもめちゃくちゃ美味しくて好きなのですが、下宿で慢性的に母の味シックに悩まされているほどなのですが、それでもただ一つだけ存在する苦手な料理が納豆でした。納豆だけはダメでした。我が人生でダントツで一番食べている母の料理こそが一番苦手なのでした。

 

なぜパック開けてタレ注ぐだけの納豆を料理と定義できるのかというと、自分の家庭の納豆は大根おろし・ネギ・ノリ・シラスなど、じつに様々な具材を放り込んでかき混ぜて作られるものだったからです。字面からは一見美味しそうに思えます。しかしこの具材たちにより、栄養価は増すものの、タレの風味と香りが削ぎ落とされ納豆の臭みのみが強く残ってしまっていたのです。

大根おろしエンチャントによって流動性が大幅に増し、ご飯にかける用としては優秀なカスタマイズになっています。稀に食卓に並ぶとろろご飯は、納豆ご飯with大根と見た目が非常に似ていた――色合いしかり、泡立ち具合しかり、ノリやネギなどの具材しかり――のですが、とろろご飯はめちゃくちゃ美味しいし臭くないので、とろろは納豆が浄罪された姿だと思い込んでいました)

 

中学高校になってこそ普通にかっこめるようになりましたが、幼稚園や小学校低学年の頃は、納豆の前で数十分居座り格闘したものでした(時間が経つほど納豆は臭くなっていて、口に運ぶ心理的ハードルはさらにあがっていきます)。

 

父親は母の納豆を母と同じくらいに強烈に愛しているのですが、きょうだい達はみな納豆が嫌いでした。親に反して「納豆が強烈に嫌い」であることは、きょうだいの結束性を高める一つのネバネバのヒモとなっていました。

 

しかし、大学入学と時を同じくして実家を離れてようやく納豆の呪縛から解放されるに至ったのですが、けっきょく今でも変わらず毎朝納豆を食べ続けることになりました。

 

一人暮らしをして初めて気づいたのですが、納豆ってタンパク源としてあまりにコスパが良いんですよね。自炊が全然できないタイプの学生には強く共感してくれると思うのですが、納豆や豆腐や卵や乳製品といった、一切調理の必要がなく、バリエーションに富んだタンパク豊富おかずが非常に安く手に入るというのは、めちゃくちゃにありがたいことです。

 

一日に必要なタンパク質の量って60グラムくらいっぽいのですが、計算してみたところ納豆・豆腐・卵・牛乳を1パック/個/杯取ってご飯を一食一杯食べれば40グラムは優に超えるので、あと多少肉なり魚なりを食べれば達成できるっぽいのです。栄養学に全く詳しくないので違っていたら申し訳ないのですが、このコスパ・タンパク源・セットを毎日食べてればタンパク質不足で死ぬことはなさそうと分かったときは涙を流して歓喜しました(もちろんタンパク質といっても種類は様々ですし一概にまとめてグラムで測るわけにはいかないのでしょうが、肉魚豆卵乳を食べても補給できないタンパク質はそうそうないんじゃないでしょうか)。

 

もちろんいくらコスパが良くて手軽だからと言って、嫌いなものを毎日食べる気にはなれません。毎日食べることができてるのは、大根おろしやらネギやらノリやらを投入しない、ただパック開けただけの納豆って案外美味しいじゃんと気づいたからです。そしてふつうに納豆が好きになりました。毎朝手間暇をかけて納豆を作ってくれた母親には心底申し訳ないのですが、しかしやっぱそのままただパック開けただけの納豆の方が遥かに美味しいです。大して臭くもないし、それでいてタレの風味は芳醇です。毎朝色んなタレの納豆を食べ比べる日々を送ってます。

 

しかしきょうだい達は今でも、みんな納豆が嫌いです。自立した一番上のきょうだいは全く納豆を食べていません。実家で暮らしているきょうだいも納豆を毎朝憎み続けていて、好物のチーズをふりまいて臭いを消すなどしています(さらにひどい味になる気がするのですが)。かつてはきょうだいと同じように「納豆が嫌い」だというポーズをとって仲良く結束していたのに、今は喜んで納豆を貪っている――納豆に屈してしまった今の自分が、かつての自分ときょうだい達を手ひどく裏切っているようで、ちょっぴり心は痛みます。母に隠れてこんな記事を書いているのも心が痛みます。母の生姜焼きやハンバーグや野菜炒めや卵焼きは本当に大好きなのです。納豆だけがダメだったのです。

 

今週のお題「納豆」)